麻痺患者の家族さんへのお願い1月19日初外出
なんだお願いって?っておもわれるがだけど麻痺患者本人が麻痺している側で何かをしようとしていたら、出来る限り危険のない限り、じっと待ってて欲しい。ま麻痺側の動作は想像を超える集中力と体力を使います。これだけは、
が経験しなければ理解できなと思う。
たとえば、お手玉を10日握って近くにあるバケツに入れるだけでも眠気がくるほどの疲労感があるんです。
けど、指や腕の動かし方を思い出したら、徐々に早くなります。
麻痺が強く動かなくても脳が司令正しく出せばうごくんです。
だからすぐに手を出さずに待ってて欲しい。
そして、外出などでそばにいるときも過剰に手出しをしないで欲しい。それくらい出来るよ!ってなるんですどれくらい介助をするべきなのかは外出前にセラピストに聞いてください。立ち上がるだけで駆け寄って来られてもなんのためにリハビリ見てるの?ってなる。
患者本人がほしいのは、構われることより、出来ることが増えたことに一緒に喜んでほしいのです。
実は昨日1月19日かな?入院後初の外出をした。見守りが必要な為兄と母が車で迎えにきてくれる。この2人生本当に頭が上がらない。苦手なところもあるけれど、見守りとは介助は不要だがけど転倒の危険があるのでそばについててくださいって意味合い。
母の計らいでリハビリ中に邪魔にならないようながかった髪の毛をバッサリ切らされた。贅沢は言えないけど気に食わない。前に落ち癖が草がきついゆえにうっとうしい。
贅沢は言えないので我慢。
退院したらパーマを当てよう。
障害者にもオシャレをする権利はあると思う。
楽しみにしていた外出は、歯科治療。
いつも左で磨いていたがうまく磨けなかったのか、歯肉炎が発症、ストレスや、対抗力の低下など歯肉炎が発症幸治療中の歯髄がうんだわけじゃなかった。しかし、母にとっては、はあなたが悪いとなる。すべて私が悪いしちゃんと磨かれなかった私が悪い。反論したくなるがしない。言って理解されなければ理解をされないってことに腹が立つ、だからどーでも良い。すべて私が悪いで治るなら問題ない
歯科治療が終わり自宅で急ぎ目な食事を取りじゃあ院に戻る。なぜかホッとした。さして、病院は暖房が効きとても暑い。
夜中に甘さと腹痛で目が覚めた。屑子は意外ように強く中々いつうにならない、其れ故に胃痛が苦手。しばらく深夜の病院のベッドで胃痛でもがいた。
なぜか笑えてきた。家族と共に過ごしただけて、後は犬飼い犬にあった会いたくて仕方なかった存在。老犬故生きている間に会うことを諦めかけていたが諦めきれなかった。
最高に嬉しい方があったのに、与えで目覚める。メンタル面の弱さがいやになる。無感情な人間になりたい。ならば、家族との距離も縮まる気がする。どうしても距離を置きたくなる。
母の言葉が恐ろしい。
今度はどんな言葉で私を傷つけるのか?
脳と口が直結型故に相手がどう捉えるか金が得られない。タイプの人けど愛情は不覚尊敬するし幸せになってほしいと思っているのに、私が母を不幸にしている。
心を無にする方法を、今度の心療内科の診察時に聞いてみよう。
1月17日心療内科を受診する。心の悲鳴
外出したい、家に帰りたいと言うたびに母が強烈に否定してくる。その度に情緒不安定なわたしはすてられたきぶんになる、親らの完全拒否。
いまはかけないけど、拒否されてもおかしくないことをしてきた私、病院で治療が行われるたびに違和感が吹き出す。
12月25日に入院し1月17日に心療内科を受診した。不安で眠れず心が悲鳴をあげだした。
理由は将来の不安だけではない、親との関係。
原因をすべて作ったのは私自身だし、私が親の立場だったらわごこであれ、見捨ててるとおもうような娘、なんです。なので名前も屑子
一般病棟に移ってから助かってしまったことによるこころぐるしさ、申し訳なさ、一生懸命にリハビリをするセラピストさん達、検査をし再発を全力でふせごとする主治医や栄養士さん達に申し訳ない。
あんなも牛若なさから心が悲鳴をあげだした
心療内科の先生には不思議と全てを打ち明けた。結果、
生きる体力も気力もゼロだなぁとし言われた。
その診察の後から心がすこし楽になった。
このころからは、トイレに行くにも見守りは不要日中限定で1人でトイレに行く自由を手に入れた。人としての尊厳を取り戻した気がした。詳細はまた別の記事で。
地獄の2日間
脳出血前にインフルA型に掛かっていた私は、搬送先でインフルA型完治が確認されるまでベッドの上で絶対安静。運ばれた時は血圧260ほどあり位出血のリスクとインフルで個室から1歩もでれず、ケア隊も手元になく不安だらけ、最高に心細くイライラした時間。発症後48じかんがしょうぶときいていちちめ、体の四肢を動かそうと足掻くも、左腕はは間隔も挙動も無く、ただの肉の塊、とかしていたら。
そんな状況によりパニックをおこしたが、幸い左足はすこし動く事が出来た。それだけが微かな希望だった。
自分の体がどこまでダメになってあるのか知りたいしかし其れすら知る事が出来ない。ICUにい間は、ただた堕地獄だった。
そんな自国の時間を時々ウトウトとねおちながら、やり過ごす。けど、看護師の『この病棟にはインフルエンザに感染すると死ぬような患者さんばかりです。絶対二部屋から出ないでください。でないでください。』出るつもりはもうトうない。『まだ辛いですよね、取り敢えず命だけは助けました』という謝罪の言葉で事の重大性に気づいた。
お不幸中脳出血は時間との戦い
意思が弱く屑な生き方をしてきた屑子です。
2018年12月25日に倒れました。突然前に崩落ちるようにるように倒れ込み、母にすぐ発見119され、番は通報ろれつが回らない左麻痺の症状ですぐさま救急搬送。
このブログラインなどでもうち間違え酷い為リハビリの為に書き始めることにしました。
まだ入院中で、通常の生活を送っていないため、どのような不具合が発生するのか不明だらけですがまひのこと、リハビリ その時の精神状況など、患者独自の記録を残したいと思います。